風土記 巻一 信濃国

第一章 信濃国 松本紹介

 神国信州松本は、広島から東へ国鉄で717,7qに位置すなり。この地、風光明媚にしてそびゆる山はいや高く、
流るる河はいや遠し。この地の産物はそば、野沢菜、そしてご存じAppleなどがある。さらに忘れてならない
のは彼のS.K氏出生の地であることである。つまりここはこの世で最もすぐれた人の出生の地なのである。

 さて、この地は夏は避暑に、冬はスキーにと諸国の田舎から貧民どもが流浪の旅にやって来る。そのたびに
藩主小林家では御前会議が開かれ、人返し令を出さねばならないのである。

 とりわけ、20世紀後半から着々とその魔の手を伸ばしはじめた下宿訪問軍団の前に、信濃の人々は全滅か
無条件降伏かを迫られているのである。
 松本大本営発表によるとこの悪魔の軍団は西日本、特にもみじ饅頭発祥の地からやって来るらしい。彼らを
迎え撃つには、厳冬の信州で彼らを野ざらしにして、「天は我を見放したか」と言わせるしか他に手段はない
のである。

(21世紀になってからの補足:在学中のある年の夏休みなど、私の友人と、そのまた友人などと称する初めて
お目にかかる人までもが、延べ50人ほども、宿屋でもない我が家を信州旅行の拠点として、無料かつ食事付き
で泊まっていったのである。)


第二章 厳冬酷寒との戦い 氷点下十数度の世界

 夏の松本は気温は高いが湿度は低く、日陰に入れば冷涼であり、わりと過ごしやすい。問題は冬の寒さにある。
特に星を見るものには冬の寒さは大敵なのである。その寒さたるや、たとえて言えば誰かさんの眠りのごとく
奥深いものである。
 諸君は水道からポタポタと落ちる水滴が朝には数十pの氷柱となり、窓はこおりついて開かなくなり、日陰に
積もった雪はセメントのごとく春まで固まりつき、鉄についた水がすぐに氷と化する世界を体験したことがある
だろうか?某大学天文学研究会員の1人が合宿に多量かつ過大なる防寒具を持って行くのはこのためである。
従って小指で持ち上がるような貧弱耐寒装備所有者氏も、彼の好意で命長らえることが出来るのである。
(ちなみに冬の松本の朝6時の気温は札幌より低い)
 信州の寒さに対する宇宙服的あるいは装甲車的服装を以下に述べる。まずは上半身から。

 下着→ハラマキ→パジャマ→ちゃんちゃんこ→普通のスタイル(冬用)→スキー用セーター→ジャンパー→
キルティングコートNo.1→キルティングコートNo.2

つづいて下半身

パンツもしくはサルマタ→ももひきもしくはズボン下→パジャマ→ジーパンNo.1→
→ジーパンNo.2→運動用ズボン→オーバーズボン

 腹の中からはコーヒーと即席ラーメンであたためるのは日本各地共通であるが、私たちはさらに体の外から
もあたためる。

 その1、かれ草に火を付けてたき火。測○用のクイを引き抜いてのたき火(特に造成地ではよくこれをやった)。
     ラーメン、コーヒーを作るときの固形燃料であたたまる。
 その2、火の付いた固形燃料の投げ合い。これが最高のスリルを味わえる。

 はきものは、くつ下を2枚にスキー用のくつ下、そして防寒ぐつ。(足先にトウガラシをいれるとあたたかい
という説がある)

 小林家に代々伝わる家宝のカイロは、粉炭を使用するものであるがゆえに、道半ばにして消えてしまうことも
しきりである。私は一度、移動コタツと称して、これも当家々宝の豆タンアンカを毛布で包み、シュラフの袋に
入れて持って行ったことがあった。これだとその中で手でも足でもあたためられるが、かさばることが最大の
欠点であった。

 しかし、神国信州の寒さはこの厳重なる装備をもつらぬく力を持っているのである。夜中も12時をすぎた
ころから、望遠鏡には霜がおりはじめ耐寒装甲服の中も耐え難くなり、やむなくそこいらをかけずり回って
暖まることになる。かくて我々は星を見ることなどどうでもよくなって夜遊びに徹するのであった。

第三章 天文台

 信州には高い山が多いためか天文台も多い。乗鞍のコロナグラフや木曽のシュミットなど大型の天文台もある。

 これは高校2年の正月3日、友人とともに木曽のシュミットカメラを見に行ったときの話である。

 木曽福島という駅でバスに乗り換えた。乗客はみなスキースタイルである。我々は130円の切符を買った。
バスは1時間半位山をのぼった。130円でこんなにバスに乗っていいものかと不安になった我々は、
アルバイトとおぼしき車掌氏にたずねてみた。

「あの〜○○○という所はまだですか?」(注、地名はすでに忘れた)

「え、そこは我々は□□□と呼んでいるところで、1時間も前にすぎましたよ。」

ガビ〜〜〜〜ン!

 そのうちにスキーに行く車の渋滞でバスはとまり、車掌は客に「スキー場までは歩いた方が早いです。」と
言った。我々も、もどろうと考え、降りる客に便乗してバスを降り、800円以上かかっているはずのバス代を
ふみたおした。

 それから根性で山を下りた。近道をするためわき道に入り、山伏しか通らないような所をおりた。(当時、
ワープという言葉はなかった)途中、滝がこおって巨大な氷柱となっているのを見たが、実に壮大なもので
あった。

 平地へ出て、車道を歩いているとバスが来た。木曽は田舎で、バス停も数があるわけではない!バスも数が
ない。このバスをのがしてはと手を振って、バス停でもないのにバスをとめて乗り込んだ。ふとみればその
バスは我々がさっきまで乗っていたバスである。ムム、ヤバイ!

 我々がおりるとき、金を払おうとすると、例の車掌氏は「いりませんよ。」と言った。つまり我々は先ほどの
ふみたおしの上に今回も金を払うことをゆるされたのである。さすがこのアルバイト車掌氏も、人情あふれる
信州人である。(注、「ふみたおし」といっても一応乗り過ごしの件は告げてあったことをここに明記する)

 我々はつかれた体で山を4時間近く登った。やっとシュミットであった。見学者は思ったより少なく、
1時間もすると我々2人だけになってしまった。
 シュミットはガラスごしにしか見せてもらえず残念がっていると、案内の人がドームの中に来て、フィルムの
つめかえ用のふたをいじったり、観測者の足場となるゴンドラを動かしたりして見せてくれ、さらに写真を
写そうとするとドームのスリットを開いてあかりを入れてくれた。そして言うことに、

「僕もこれから下山しますから、いっしょに行きませんか。」

 歩き疲れた我々は、ジープに乗せてもらえると言うので大喜びでこの申し入れをうけた。

 帰途、はるかかなたに、雪におおわれた木曽駒ヶ岳が、夕日を浴びてそそり立っているのが見えた。

                                      (51小林 1977年 12月 蒼穹第5号 より)


数十年後の言い訳

「風土記」とは、ご存じのように、奈良時代に各地の地名の由来・産物・土地の状況などを記して朝廷に差し出した書物です。

大学には日本各地から学生が集まってきますから、『蒼穹』に「風土記」というコーナーを設けて、それぞれの郷里のことなどを
紹介してもらえると良いかと思って、51-小林 が始めました。

今にして思うと、なかなか良い思いつきだったと思うのですが、しかし、この第1回の文章、長い年月を経て読み返してみますと、
我ながら傲慢・不遜にして、破廉恥・恥知らず極まりない文章です。若気の至りとはいえ、よくもまあ、しゃあしゃあとこんな事を
書いたもの、ここに復元しながら、恥ずかしくてなりません。穴があったら入りたいとは、まさにこのことです。

また、若気の至りでは済まされないような表現も多々含んでおりましたので、これはマズイだろうという部分を数カ所、修正させて
いただいております。

2014年1月に、NHK-BSで「木曽オリオン」という1時間物のドラマが放映されました。上記「風土記」第3章に出てくる、木曽の天文台
(シュミットカメラ)が舞台となっていましたので、それを記念して、あえてこのような文章を掲載することと致しました次第です。